14.罪の悲しい結果

罪の最初の結果は「悲惨」であり、罪のもう一つの結果は、悲惨が罪の結果とは思わなくなったことです。罪は人間を部分的にしました。いつでも物事の半分、いや、もっと少い部分しか見えていないのです。人はその「結果」ばかりをなげく者となってしまいました。病気をいやすために最も重要なのは、痛みや熱といった症状を無くすることではなく、症状の原因となっている病気そのものを取り去ることです。しかし人は、罪という霊的な病気そのものではなく、その症状である人生の様々な苦しみや悲しみだけを嘆いているのです。

最初で最大の罪の結果は、神との交わりを失ったことです。アダムとエバがエデンの園で罪をおかしたとき、二人は神から隠れました。それまでは、神との交わりが最大の喜びであったのです。しかし今や神から隠れる者となりました。

罪をおかした後、人類が最初にしたのは、裸を覆う着物をつくったことです。それ以前は、互いに裸であっても恥ずかしいとは思いませんでした。体も心も丸見えでよかったのです。罪は体と心に隠す必要を生じさせ、このようにして夫婦の間にも隠し事がはじまりました。最大の悲劇は神から隠れようとしたことです。

神は呼びかけ、人は応えました。人間だけが、神の呼びかけに対して応えるように造られたからです。人はいまでも、神の呼びかけに何らかの応答をしなければならないのです。牛や馬は神にさからうことを知りません。しかし、神の呼びかけに応えることもしません。人間だけが神の呼びかけに従順に応えることも、それを無視し意識的に反逆することもできるのです。アダムは応答しましたが、正しい応答ではありませんでした。体はいちじくの葉で覆い、心は他の人に責任をなすりつけることによって覆ったのです。罪の悲しい結果です。

「『あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました。』主なる神は女にむかって言われました。『何ということをしたのか。』女は答えた。『蛇がだましたので、食べてしまいました。』」神に対する人の最初の応答は、「責任転嫁」でした。そして、人は今も同じようにしています。「あなたは、どこにいるのか」という神の声は、今でも私たちの心に聞こえてきます。そして今も、「女が悪いからです」、「蛇がだましたので」と弁解しているのです。自分の裸を隠すために、他人の罪をあばき、他人を裸にしようとさえするのです。あなたと神の関係は正しいでしょうか。最初の人が神との交わりを失ったときの印が、責任転嫁と自己弁護であったように、今も、同じ印によって私たちと神の関係を診断することができるでしょう。

神との交わりに関して、もう一つのテストがあります。それは神との交わりを失った、と思うかどうかです。「失った」と思うなら、失っていません。失ったことを悲しんでいるのですから。神との交わりなど考えてみたこともないなら、その人は失われているのです。サタンの支配のもとにある者の最大の特徴は、サタンの支配の下にあることに気がつかないことです。

サタンの支配は完璧です。パウロはサタンの完全な支配のもとにある人を、エフェソの信徒への手紙 2章1~2節でこのように描いています。「あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです。この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊に従い、過ちと罪を犯して歩んでいました。」キリストの支配の下に来る前の魂は「死んでいた」、と表現されていることに注目しなければなりません。死んでいる人の最大の特徴は、自分が死んでいることに気がつかないことです。それこそが死んでいる状態であり、霊的に死んでいる状態、すなわち神との交わりを失っている最も悲しい状態の特徴です。

神は罪をおかした人を見捨てるのではなく、なおも人を追いかけてこられました。だからこそ、人は神の声に応えなければなりません。様々なことを通して「どこにいるのか」という神の声が、私たちを追いかけ私たちの心に聞こえてきます。最も鮮明な神の声は聖書ですが、人の声や、私たちの周りにおこってくる出来事、良心を通しても神は語りかけます(ローマの信徒への手紙 2:14~15)。「どこにいるのか」は、様々な言葉にかわります。でもそれは、神の恵みの声なのです。

重大さと、気軽さが調和していません。「彼も食べた」の一言です。重大な事件は毎日、気軽におこっているのです。「一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた」という具合です。朝起きてから今までどのようにすごしたかも、実は重大問題です。朝に聖書を読んで祈ったかどうか、と言っているのではありません。神との関係ですごしたかという問です。神に対して、他の人に対して、自分に対して、行ったこと、したこと、言ったこと、考えたこと。それは、ささいなことではなく、重大なことであるのです。妻や夫、隣人に対するほんの一言の中にも、私たちの神に対する態度があらわれているからです。

「自己弁護」ではなく「悔い改め」。これこそが、神との関係を回復するマスターキーです。人間の涙や悔い改めそれ自体の中に何らかの力があるのではありません。ただ、キリストとその十字架にあらわされた神の愛にだけ、神との交わりが回復される理由があります。そして私たちをこの十字架のもとに導くのが悔い改めなのです。

放蕩息子は父親から離れた遠い国に自由と喜びがあると思いました(ルカ福音書 15:11~32)。しかしそこにあったものは、悲惨と孤独だけです。放蕩息子は、「我に返りました」(17節)。そのとき息子は、父との交わりを失っていたことにはじめて気がつきました。そして、父の心の中ではすでに交わりが回復されていたのです。