13.「原罪」とは何か

キリストは「罪からの救い主」ですから、「罪」がよく理解されないところでは、「救い」も「救い主」も良く分からなくなってしまうのは当然のことです。

病気が何であるのか、病気がどれぐらい深刻なのかが分からなければ、適切な治療ができないのと同じです。肉体の病気に関しては誰でも分かる原則ですが、霊的な病気に関しては、同じことが分からなくなってしまいます。だから主イエスは「医者を必要とするのは丈夫な人ではなく病人である」(マタイ福音書 9:12)と言われました。「もう少し元気になったら、病院にいきます」という人はありませんが、魂の病気である罪に関してはそのように考えてしまうのです。

キリストは魂の医者です。人が罪深いからこそ救い主と教会が必要なのです。罪と罪の重大さが分からなければ、神の愛の必用を感じません。神の愛の高さ深さ広さが分からなくなってしまいます。人間の罪の深さを知ることは、神の愛の高さを知るために不可欠であるのです。罪を考えることそれ自体が最終的な目的なのではありません。しかし、聖書の最もすばらしい救いのメッセージを理解するためには、どうしても罪の問題を避けてバイパスを通ってはならないのです。

まず行為があるのではなく、罪の出発点は心の中です。手や足や目が勝手に罪をおかすのではなく、心がまず罪に関心を持つのです。すべての人は、罪に関心を示す心をもって生まれてきました。真っ白な心ではなく、罪深い心を持って人間はこの世に生まれてきたのです。これを教理的な言葉で「原罪」とよんでいます。現実の罪だけでなく、罪を生み出す源である「原罪」を問題にしなければなりません。キリスト教を理解する最も重要なポイントです。人間は罪の状態に、つまり原罪をもってこの世に生まれてくるのです。「原因」の「原」、英語では、「オリジナル」。最初からあり、すべての実際の罪の源であり原因が原罪です。

アダムは最初、神と神の言葉に完全に従い、神との正しい関係にありました。ヘビの誘惑はその関係を集中攻撃したのです。そのためには人間のプライドに働きかけるのが最も効果的であると、狡猾なヘビは考えました。そのやり方は今でもほとんど変わっていません。

そして言いました。「なんでもかんでも神に従っているって。そんなつまらないことでよく我慢しているね。頭を使いなさい。自立しなさい」と。「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか」「それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ」(創世記 3:3、5)。

つまり自分が小さな神になろうとする誘惑です。それが人類最初の罪の本質であり、原罪の核です。ですからほとんどの人間の問題は、これによって説明が可能です。コンセントに電気がきていることは普段は目に見えませんが、だからといって電気がきていないのではありません。テレビやトースターと言った電気機器をコンセントにつなぐと、電気は様々な見える働きをするようになります。そのように人間の心の内にひそむ原罪が、何かの機会に、敵意、争い、そねみ、怒りといった姿になってあらわれてくるのです。

なぜ争いがおこるのでしょうか。その原因は、エデンの園を探せば見つけることができます。人が神から離れて、自我という小さな神になったのです。神と神のことばを中心にまわるのをやめて、一人一人が小さな宇宙になり、神も人も自分を中心に回そうとします。世界は自分のためにあると思っています。人が神から離れたとき、一人一人が小さな神になり、小さな宇宙の中心になったのです。小宇宙は他の小宇宙と互いに衝突します。自分の宇宙を侵略する者は、エイリアンでありみんな敵ですから。そしてガラテヤ書のリストにある、敵意や争い、そねみ、怒り、不和、仲間争い、ねたみがおこります。それぞれの争いには、それぞれの直接の具体的な原因があるでしょう。おもちゃや砂場の取り合いであるかも知れません。自分より能力のある者に対するねたみであるかもしれません。国家間の領土問題であるかもしれません。いずれにしても、自分が満足しないということでは共通しています。小宇宙同士の衝突であり、原罪に根本的な原因があるのです。

罪は正しい関係を逆転させる力です。美と調和を見苦しい不調和に変えてしまうおそろしい力です。手や足、口や耳はすばらしい働きをしますが、それを悪い目的のためにも用いることができます。性欲や食欲はそれ自体悪いものではありませんが、それぞれのいるべき場所をわきまえずに、あばれまって人間全体を支配して悲惨な結果をもたらすのです。宗教心さえも悪用して、最も悪い偶像礼拝に変えてしまいます。最善のものを、最悪に変えてしまう力が罪です。

知識も例外ではありません。「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さを意味のないものにする」(コリントの信徒への手紙一 1:19)。パウロは知恵や賢さを非難しているのではなく、人間の知恵や賢さのゆえに神を知ろうとしない高慢を警告しているのです。神から独立した知恵を求めるという、アダムの最初の罪と同じです。

聖書はいつでも根源に目をとめ、この世の教育や道徳は現れてきたものに対応しようとします。それでも部分的、一時的には現れた罪を何とかすることができるかも知れません。押さえつけたり、表面を白く塗って美しく見せることはできるでしょう。しかし、心の奥底にある原罪に対しては無力であり、自我に捕らえられている自分を解放することができないのです。

あの罪この罪をやっつけようとするだけでは解決はできません。また別の形になって現れてくるからです。あの罪この罪を生み出す原罪こそ、がキリストの十字架によって処理されなければならないのです。したがって、教理のテーマは次に罪から救いへと移っていきます。