12.罪の起源

罪はなぜあるのか。罪はなぜなくならないのか。宇宙最大の問の1つです。哲学者や平和主義者が、そしてすべての人が「なぜ?」と問い続けてきた罪の普遍性の問題です。いつの時代にも、世界中のどこにでも罪はあります。「正しい者はいない。一人もいない。」(ローマの信徒への手紙 3:12)と聖書は断言しています。「正しい者は少ない」でも「正しい者は非常にまれである」でもなく、「正しい者は一人もいない」のです。

聖書は実に多くの個所で、直接間接に罪の普遍性を教えています。罪の普遍性の説明の第一は性善説によるものです。生まれたとき人の心は真っ白で、その後、この世の様々な誘惑と悪影響によってだんだんと黒くなっていくのだ。このような人間理解は一面では確かに正しいと言えるでしょう。純情な中学生も悪い雑誌やビデオを見たり悪い仲間に入って、だんだんと悪くなっていきます。

しかし、性善説では説明のできない多くのことが残るのも事実です。2~3歳の幼いこどもの場合はどうでしょうか。まだ悪い雑誌を読むことも、悪いビデオを見てもそれを理解することもできない、そんな小さなこどもたちも、立派な罪をおかすのを私たちはよく知っているのです。弟のおもちゃを取り上げて泣かせます。お母さんにウソをついてでも、自分を守ろうとします。「おもちゃをかたずけなさい」と言っても、したいことをしています。どこから、そのような悪を学習したのでしょうか。まわりの人がウソをつくのをヒントにして、自分でもやってみたのでしょうか。性善説ではほとんど説明が不可能です。

性善説に対しては、性悪説があります。「人を見たらどろぼうと思え」の精神です。生まれたとき人の心は黒というのです。聖書は一種の性悪説ですが、白でも黒でもなく、両方を混ぜた灰色です。真っ黒は悪魔ですから、生まれたとき人の心は真っ黒というわけではありません。どんなに悪人と思える人であっても、なんらかの善をおこなうことはあるでしょう。

灰色とは、罪が人の心と行動のすべての領域にしみ込んでいる状態です。悪いことも良いこともする。しかしどんなに良いことをしても、その中にも大なり小なり罪が入り込んでいる。たとえば善いことをしても、人にほめられるため、という思いも少し混ざっているのです。

罪はどのようにしてすべての人の心に入ってきたのか。罪はなぜ普遍的にあるのか。聖書はこの困難な問に対する明快な答をもっています。ローマの信徒への手紙 5章12節から20節にはその要約があります。「このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。」(ローマ5:12)。「一人の人」は、アダムです。人類の代表者としてアダムが罪をおかした。そのために、全人類が罪人になった。もっとも明快な説明であり、もっとも困難な教えです。

代表者の行為の結果が、代表されている多くの人々にまで及ぶことがあります。企業の大型合併が次々と発表されています。会社の代表者同志が決定したことは、全社員に影響を及ぼします。国の代表者が宣戦布告を決定すれば、その国の国民は相手の国からは敵とよばれるようになります。日本軍が真珠湾を攻撃したとき、アメリカ人と日本人はお互いに敵になりました。代表者の決定がすべての国民に影響を及ぼすのです。そのように、人類の先祖であり代表者であるアダムの罪の行為が、子孫である全人類に及んだ、というのが聖書の説明です。

世界に罪があること、すべての人に罪があることは、それとも偶然なのでしょうか。偶然ならば、罪の無い人がたまには生まれてくることもあるはずではありませんか。しかし、「正しい人はいない。一人もいない。」という聖書の教えの方が正しいと思えるのです。

罪がどうしてあるのかをなぜ知る必要があるのでしょうか。罪をどのように理解するかによって、解決の方法がちがってくるからです。罪のない真っ白な状態で生まれてくるのだとしたら、箱に入れて罪と接触する機会をなくせば罪のない人ができるはずです。良いことばかりを教えれば、良いことばかりをおこなう立派な人になるはずです。しかし現実は、良いことはいくら言ってもしないで、教えてもいない悪いことは次々としてくれるのが我が子です。

代表者アダムが罪をおかしたため、全人類に罪が入った。それゆえに、いつの時代にも世界中のどこにでも罪がある。聖書の説明です。聖書には、もう一人の代表者がいます。第2のアダムといわれるキリストです。今度は、この代表者によって人類は救われるのです。そのためにはまず、私たちがアダムにあって罪人であること、私たちも同じように神に反逆していることを認めなければなりません。「一人の罪によって多くの人が死ぬことになったとすれば、なおさら、神の恵みと一人の人イエス・キリストの恵みの賜物とは、多くの人にそそがれるのです。」(ローマの信徒への手紙 5:15)。「一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたように、一人の従順によって多くの人が正しい者とされるのです。」(同 5:19)。