11.「罪」とは何か

罪というとき、だれもがまず考えるのは犯罪でしょう。犯罪とは、国家の法律をやぶることです。罪に関するこの定義は、後で考えるように基本的には聖書の理解と共通していますが、聖書の罪はもっと広い意味をもっています。国家の法律をやぶらなくても、聖書では罪と呼ばれることがあります。たとえば、他の人に「バカ」と言う者は、殺人の罪をおかしていると主イエスは言われました(マタイ福音書 5:22)。

聖書の罪という言葉は様々な意味に用いられていますが、何かの基準があってそこを越えるという基本的な意味があります。殺人と遅刻は罪の種類も程度もちがっていますが、方向に関してはどの罪も共通しています。ある基準から離れていくという方向です。

罪は積極的な活動的です。何かが欠けているというような、単なる空洞の状態ではありません。たとえば無知のために罪をおかすのではありません。それなら、教育によって罪はなくなるはずです。教育に熱心な現代は、昔よりも罪が少ないはずですが、そうでもないことは私たちはよく知っています。罪は何かが無い状態ではなく、一つの方向性をもった巨大なエネルギーであるのです。

積極的な罪と消極的な罪があります。積極的な罪とは、してはならないことをする罪。消極的な罪とは、しなければならないことをしない罪。消極的な罪も積極的であることにはかわりがありません。夏休みの宿題をしないで積極的に遊んでいるのに似ています。

罪の起源は創世記3章にあります。へビの誘惑は三段構えです。最初の段階では、表面上は単純な質問の形をとっています。「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。」(創世記 3:1)。イエスかノーで答えることのできる単純なクイズのような質問です。しかし、その中には毒がしかけられていました。「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」という元の神の命令(同 2:16~17)と比べてみてください。エバはまず単純に答えます。「わたしたちは園の木の果実を食べてよいのです。」しかし、「でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました」というエバの答の後半には、ヘビの誘惑にひっかかり始めているサインがはっきりと表れています。神は「触れてもいけない」とは言われなかったからです。ヘビの質問には、「神はそんなきびしいことを言われたのか」という毒がしこまれており、毒が早くも回りはじめていたのです。

第二段階はもっとストレートです。これまでに獲得したことを、さらに進展させます。最初はエバの心の裏口から入ろうとしましたが、今度は正面玄関から入ってきます。そして「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のようになることを神はご存じなのだ」と断言するのです。神はウソつきで、神は自分だけがいばっていたいのだ。皆が神のように賢くなることをねたんでいるのだ。神はウソつきで意地悪な方だ、と大胆にも解説をしたのです。

そして第三段階では、もはやヘビが積極的に誘惑する必要はありませんでした。もう一度、エバに木の実を見せるだけで十分であったのです。エバは自分が取って食べただけでなく、それを夫のアダムにも与えました。そして「彼も食べた」のです。最初にアダムではなくエバを誘惑したことにも、ヘビの巧妙さが表れています。男より女の方がだまされやすいからではありません。アダムは神から直接命令を受けていました(同 2:16)。しかし、エバは間接的にアダムから神の命令を知っていたにすぎません。アダムを誘惑するのは、はるかに困難なことであったのです。

神の言葉に対する疑いこそが罪の本質でありすべての罪の源です。それが次に、神の愛に対する疑いにつながりました。神はウソつきで、親切なのはヘビの方だ。ヘビは私が神のようになる方法を教えてくれるのだ。これがヘビの説明であり、アダムとエバの採用した結論です。そして二人は、この結論をすぐ実行に移しました。木の実を食べたことは、単なるカキどろぼうではありません。神の律法を越えるという重大な決断であったのです。神の言葉に対する反逆であり、それ以来人類は、神の言葉ではなく自分の判断に従って生きるようになったのです。

罪の定義も、エバによってつくりかえられました。その解釈がいまも人々の間で通用しています。エバは、食べてはいけない理由は「死んではいけないから」、とヘビに説明しています。確かに「それを取って食べるとき、あなたは死ぬ」と神は言われました。しかしそれは命令に従わなければならない理由ではありませんでした。神の命令は、単に「食べてはいけない」です。従順のテストであったからです。もし木の実に毒があるとしたら、従順のテストにはなりません。神に反逆する者であっても、毒があるならその木の実を食べないからです。ただ神の命令である、というただそれだけの理由で食べてはいけなかったのです。

自分に害を与えるものが悪であり、このときから罪と悪の定義が変えられ、今日もこの標準によって人は行動しているのです。罪とは神の言葉にそむくこと、神の命令された範囲を越えることです。

全ての問題の根源は、人が神の言葉と神の愛から離れたことにある、というのが聖書の説明です。もしそうだとすれば、解決があるのです。神の言葉と神の愛に立ち返ることです。神は、恵みによって、十字架によって、人は罪の支配から解放されるという約束をしてくださったのです。