10.「行いの契約」

大きな社会も、小さな社会も、人が二人以上集まるところ、必ず問題が起こります。家庭や教会も例外ではありません。映画に出てくるような大悪党や、テロや銃乱射や凶悪な事件によって、社会が混乱するとはあるでしょう。しかし多くの場合は、新聞にもテレビにも出ないようなもっと小さな争いが、様々な悲しい結果を導き出すのです。最も身近な家庭も例外ではありません。浮気、ギャンブル、DVなど、深刻な罪によって家庭が破壊される場合もあるでしょう。しかし家庭でも、もっと小さな日常の争いの積み重ねによって、深刻な結果に到達することの方がはるかに多いのです。

「健康ブーム」と言われ、「健康茶」、「のどあめ」、「無農薬」など健康に関係のある名前をつけると食品がよく売れるそうです。しかし、無農薬の野菜や健康食品を食べ、適度の運動をおこない、美容と健康に細心の注意を払っていても、それでも健康はそこなわれるのが普通です。健康のためによいといわれる、あれもこれもやりながら、禁止されているたった1つのことをしたために病気になってしまいます。良いと思うたくさんのことをするより、止めたくないと思っている1つのことをしないことの方が難しいのです。そしてそのために、健康であれ夫婦の関係であれ教会の交わりであれ、大切なものがだいなしになってしまいます。その代表的で最初の例が、聖書の最初の部分に記されています。人類の先祖であり代表者であるアダムにオリジナルをみることができます。アダムは、してはいけないたった一つのことによって、重大な結果を自分自身とその後の人類全体に招いたのです。

「主なる神は言われた。『園のすべての木からとって食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。』このテストの結果は、私たちがよく知っているように失敗です。そのために、人類に死が入ってきました。死が第1にあらわしているのは、悲しみです。アダムの罪によって、死と悲惨が入ってきたのです。

さて、これから先はテストという一般的なことばを、「契約」という神学的なことばに置き換えたいと思います。このテストは、「契約」というかたちをとっているからです。この契約が実行されるかどうかは、アダムの行いにかかっていました。それゆえにこの契約は神学的な言葉で、「行いの契約」と言われます。これは、問15で扱われる「恵みの契約」と対応しています。人間の行いではなく、救いはただ神の恵みにだけかかわっているためそのように呼ばれています。恵みの契約は聖書の中心を流れる最も重要なテーマです。そして、「恵みの契約」は「行いの契約」と比較することによって意味が明かにされるのです。

契約には二つ以上の契約の当事者がいます。当事者は神と人(アダム)です。契約の内容(約束)は「永遠の命」です。神の命令の中に「永遠」も「命」ということばも見当たりませんが、「死」ということばの裏に命が含まれているのです。「善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」しかし、命令を守って食べなければ生きるのです。永遠の命という契約の祝福が、「死ぬ」という刑罰の中に含まれているのです。

小麦が1万トン輸入されるためには条件があります。もちろん小麦の代金を払うことです。行いの契約の場合、条件は神の命令を守り善悪の知識の木からは食べないという消極的な行いです。

人間同士の契約の場合も、何らかの印が用いられるのが普通です。日本人の最も好きな印は印鑑です。契約書をかわし、最後にはんこが押されます。こども達の遊びの、指切りげんまんも一種の契約の印です。行いの契約の印は、善悪の知識の木と考えられています。

契約を破ったときの罰は「食べるとかならず死んでしまう」とはっきりと書かれています。聖書で死というとき、基本的な意味は、「分離」です。肉体の死とは、肉体と魂との分離。霊的な死とは、神との魂の分離。そして永遠の死とは、肉体も魂も永遠に神から切り離されることです。

私たちがよく知っているように、アダムはこの契約を守りませんでした。それゆえ契約をまもったときの約束である永遠の命ではなく、契約を破ったときの罰である三重の死がアダムとその子孫である人類のものとなりました。

キリストの十字架は、信じる者を罪をおかす前のアダムの状態にもどしたのではありません。キリストの十字架は、もっと高いレベルへと私たちを引き上げたのです。エデンの園でのアダムは、確かに罪がありませんでした。しかし、罪をおかして堕落する可能性をもっていました。キリストを信じる者にも罪があります。しかし、その罪は十字架によってゆるされ、罪の力の根は、もはや断ち切られているのです。キリストの十字架のゆえに、もはや私たちと神は引き離されることがありません。人間の愛は引き離されます。しかし、神の愛はそうではありません。