1.教理を学ぶ目的

「私たちは何のために生きるのですか」(著者訳)。ウェストミンスター小教理問答書の最初の問です。すべての生物の中で、人間にだけにある質問です。これを「教理は何のためにあるのですか」と言い換えてみましょう。どちらの問の答えも同じ、「神の栄光をあらわし神を永遠に喜ぶためです。」

さらに、「人はなぜ、不幸になるのか」と最初の問を否定的に言い換えてみましょう。その答えも否定的に「神の栄光ではなく、自分の栄光をあらわそうとするからです。」

人が本当の目的からはずれるときに、ストレスを感じ、いらいらしたり不幸になります。「本当の生きる目的からずれていますよ」と魂が叫んでいるからです。

「聖書を読む目的は何ですか」と最後に言い換えてみましょう。答えはやはり同じであり、神の栄光のためという本当の目的をはずれるとどこかがおかしくなりはじめます。聖書をより深く知りたいという願いは正しいのですが、その前に何にために聖書をより深く知りたいのかが問われなければなりません。

「あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現すためにしなさい」(コリントの信徒への手紙一 10:31)というパウロの言葉は、「食べる」「飲む」という最も日常的で普通の行動まで、すべてのことを最終的な目的である神の栄光のためにしなさい、という意味です。しかし一方では、聖書を読み聖書を研究するという行為でさえ、その他の目的のため、たとえば自己満足のためや自分の聖書知識を人にみせびらかすためにも用いられる危険があることを暗示しているのです。

「神の栄光をあらわし、神を永遠に喜ぶことです」という答えの意味が分かるでしょうか。一つ一つの言葉の意味が分かるでしょうか。「神の栄光をあらわす」とは何でしょう。「神を喜ぶ」とは何でしょう。「永遠」とはどういうことでしょう。実はこの答えには分からない言葉ばかりがならんでいるのです。これは人類が最も分からなくなったことであり、自分の理解から出発してはいけないと警告しているのです。

教理問答書と聖書の結論は同じです。聖書を読む目的はあの有名なヨハネ福音書3章16節に要約され、聖書全体のメッセージを知ることであるのです。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠の命を持つためである。」

教理の目的は、聖書のこの全体像を示すことであり、私たちは迷いださないために、いつでもこの全体像を見ながら聖書を読んでいくことが求められるのです。